HOME > Web 限定インタビュー > 「藤村実穂子」インタビュー
「藤村実穂子」web限定インタビュー取材日:2014.01.31
ヨーロッパの歌劇場の最前線で活躍を続け
「世界最高峰」と評されるメゾソプラノ歌手、藤村実穂子。
可児市でのリサイタルを前に、
歌にかける真摯な思いを語ってくれました。
今回のプログラムは、藤村さんの本領ともいえるドイツ歌曲ということで非常に楽しみです。R.シュトラウスとマーラーを選ばれた理由や、きっかけなどをお聞かせください。
’11年3月11日から私の中で何かが大きく変化し、以来プログラムは毎回、東日本大震災で亡くなった方々に捧げてきました。そして先頃、クラウディオ・アッバード(指揮者)が亡くなってしまいました。DVDにもなりましたが、ルツェルン音楽祭の「トリスタンとイゾルデ」第2幕演奏会形式で初めてご一緒させて頂きました。「マエストロと呼ぶんじゃない、僕はクラウディオ!」などとおっしゃる、優しく、そして静かな方でした。私のような若造にも気を遣って下さり、私が舞台で待つときの椅子も「こっちの方が良いんじゃない?」と、80歳なのにご自分で動かすような方だったんです。音楽、そして音楽家に対し本当に謙虚で、私にとって真の意味の「マエストロ(巨匠)」でした。大好きで、心から尊敬していた彼にも捧げたいと思い、今回のアンコールの曲を全て変更したんです。私は今回で4回目となる歌曲のみの夕べのため、この10年、朝4時から夕方の4時まで勉強とスポーツをした後、6時から10時まで事務仕事をこなす毎日を送ってきました。1日14時間労働を日曜も休日もなく10年間続けてきたことになるのですが、体が高速道路をファーストギアで走り続け、焼け焦げた車のモーターみたいになってしまいました。歌曲のみのリサイタルは、今後一時停止する予定です。再開がいつになるかはわかりませんので、今回は皆さまにぜひ楽しんでいただきたいですね。
以前はカストラートが演じ、男性役を担うことも「メゾソプラノ」。その声域の魅力をお聞かせください。
私は野球でいうとピッチャーよりもキャッチャー。サッカーで言えばフォワードよりゴールキーパーのような、目立たず支える役に惹かれます。メゾの役は精神的に屈折した役が多くて、こう行くであろうあらすじをコロッと変えてしまったり、邪魔したり、嫉妬したり、一筋縄ではいかないのが面白い。だからやりがいがあるのです。憎まれるくらいで済めばよいのですが、オペラが終わって「あいつだけは許せない」と思っていただければ「しめしめ」ということです(笑)。
活動のほとんどが欧米第一級の最前線。しかも「最高のメゾソプラノのひとり」と評されていらっしゃいます。同じ日本人として誇らしい限りですが、これまでのご苦労は計り知れなかったのではないでしょうか?
私はただ、人間としてより良くなりたいと常に考え、祈り、願っていました。すると課題や難題、試練や苦しみのようなものは、正しいタイミングで、しかも耐えうる範囲内で与えられるのです。何回も何回もしんどいことが起きると、次第に経験則として、こう考えるようになりました。これは神様が私を試しているのだと、私に耐える力があるか、見ているのだと。試練がないことは、神様から試されていないという意味で、実は非常に不幸なことなのだと。試練や苦労があってこそ、初めて学ぶものがある。苦しみが繰り返し与えられることによって、人は学び、成長していくのだと、私は解釈しています。自分に同情することなく、冷静に自分の位置を確認しながら一歩一歩、まっすぐに道を歩むことが、私の、そして人間の生まれてきた意味なのではないかと思っています。日本にいようが外国にいようが、人間として良くなりたいという気持ちがあれば、試練や苦労は向こうからやって来てくれるのではないかと思います。しかしそういうとき「こんなに不幸なのは私だけ」「どうしてあの人はあんなに幸せで、私だけ…」と思っていたら、全く意味がない。どうして起こったのか、この問題から私は何を学ぶべきか、と考えないと、学ぶことは出来ません。よくある「悩んでいる自分が好き」には、くれぐれも陥らないことです。失敗は、直せば学んだことになる、直さなければ失敗のまま、ということです。
藤村さんは、歌うためにすべてを尽くせるよう非常にストイックな日常生活をお送りとのこと。藤村さんにとって、生きるこということは歌と直結していると言ってよいのでしょうか?また、大切にしている幸せな時間はありますか?
そうでなければ、私の生まれてきた意味は全くないということになります(笑)。私は、人間は皆、宿題があるからこの世に生まれてきたのだと思っています。宿題がないというのは、完璧であるということ、つまり神であるということです。完璧だったら生まれてくる必要はない。完璧でないから生まれてくる。不完全ということは、まだ勉強の余地があるということ。その勉強をしに、神でない我々人間は生まれてくるのだと。だけど宿題が見つからない方が、目を覚まさない方が、逆に幸福かもしれないですね。私は、幸か不幸か自分の宿題を見つけてしまったので、一般の方々からストイックな生活と言われる生活を送っています。しかし私には「節制している」という意識は全くありません。体が楽器なので、体の声に耳を傾けるようにして良くない物を排除しているだけです。神様は私に声をプレゼントし、同時に私への宿題と言う意味も与えてくれました。私にはこの贈り物に応える義務があります。私にとってこのお礼という行為は、イコール生きるということなんです。そして私にとって生きるということは、求めるということです。私生活とか楽しみとか、そういうものは全て犠牲にして当然です。私にとって一番幸せな時間とは、私の演奏会に来てくださる見ず知らずの方たちと、作曲家あるいは作詞家の見た世界を共有する時間です。これ以上価値ある瞬間は考え難いです。
声楽を志している日本の若者にメッセージをお願いします。
舞台で表現するものはあなた自身ではありません。詩人が見たもの、作曲家が詩を通して聞いたものを表現するのが歌手です。歌手としてパレットに沢山の色を持っていなければ、一体どうやって表現するのでしょう? 「私を見て!どう素晴らしいでしょう」というようなものは、音楽ではなく「発表会」ではないでしょうか。私が大学生の頃、時間があれば図書館に行ってオペラや、歌曲、さまざまな音楽を聴いていました。そして図書館が閉まると、リサイタル、演奏会、オペラのほかにも、絵画展、映画、演劇に出掛けていました。今では残念ながら、そんな時間もなくなってしまいましたが…。私にとってあの幸せな学生時代が、今でも大いなる「糧」となりベースとなっています。皆さんも時間があればオペラ、歌曲、オーケストラ作品、室内楽など、どんどん音楽を聴き、読書、絵画、彫刻、演劇、映画、ジャンルにこだわらずたくさん見たり読んだりすることをお勧めします。音楽室で1時間ほど歌って「はい終わり」というものだけが練習ではありません。私の場合は声を出すまでに100倍以上時間を掛けます。まず詩の意味を調べ、何回も繰り返し声に出して読むこと。声を出す前に楽譜をよく読み、どの部分をどう歌うかを考える設計作業。その後、どういう声で歌うのか思い浮かべるイマジネーション練習。それから初めて声を出して、自分のイマジネーションの声と合わなかったら、すぐに止めてもう一度イメージし直す。その繰り返しです。やってみるとわかりますが、しんどいです。CDを購入し自分の声にコピーして終わり…ということをしていては、あなたはコピー機以外の何ものでもありません。「自分の歌」というものを求めてください。それはあなたが「どう生きるか」ということと、全くもってイコールです。
3/21 FRIDAY・HOLIDAY
藤村実穂子 メゾソプラノ・リサイタル 歌曲の夕べ
チケット発売中
■会場/可児市文化創造センターala 主劇場
■開演/14:00
■料金/全席指定¥4,000 18歳以下¥2,000
■お問合せ/可児市文化創造センターala TEL.0574-60-3050
※未就学児入場不可