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「藤田貴大」スペシャルインタビュー取材日:2024.07.08
藤田貴大率いるマームとジプシーが2年ぶりの新作
「equal」の全国ツアー後半を開始する。
今日マチ子の同名漫画をもとにした代表作「cocoon」で
沖縄戦を長く取材している藤田だが
「equal」では自身の故郷である北海道伊達市を1年以上かけてリサーチ。
幾多の史実や証言から、あらためて土地の記憶と出会い、創作へと駆り立てられた。
同じセリフやシーンが何度も繰り返される「リフレイン」の手法を駆使しながら
世界や歴史という大きな概念と人間一人ひとりの存在を誠実に対峙させてきた藤田は
今、何を考え、演劇を生み出しているのか。率直な想いを語ってくれた。
創作の経緯をお聞かせください。
2022年の「cocoon」ツアーは北海道も公演地だったので帰る機会があったんですよ。北海道は戦争の傷跡が少ないと聞いてきたんですが、調べてみると北海道にも戦争の時代はあった。戦争を調べることは数字と向き合うことでもあり、沖縄戦では何万人も亡くなっています。その上で「cocoon」では何万人という括りではなく一人ひとりの顔を描きました。そういう公演が終わって伊達市界隈の戦争を調べ始めたんです。隣町の室蘭は製鉄所があったので艦砲射撃が2日間行われて八百何十人が死んだとか、伊達も高校の最寄り駅が空襲にあって二十数人死んだとか。僕らの通学路でも誰かが死んだかもしれないという歴史を知りました。最初は直感的に始めたけど、2回目はもうカメラを持って伊達や室蘭の風景を押さえていました。図書館に通ったり、かつて製鉄所に勤めていた方や伊達に住むいろんな職業の方に話を聞いたり、1年半ぐらい続けたのかな。20代も伊達を描いている自覚はあったけど、当時は子どもの頃の曖昧な記憶をもとにフィクションを立ち上げていたので、「equal」ではより史実に近いところで向き合えたらと考えました。
取材を経て作品の核はどこに?
リサーチしていた時期はウクライナやパレスチナで起こっていることもあって世界中の戦争という響きが耳に入り、戦争に伴って起こっていること、例えば子どもが殺されるとか、女性たちはどういう扱いを受けているかとかニュースで知ることになります。そこでパレスチナやガザ地区に関する本を読むと、ひと段階遅れて何かを知るじゃないですか。それは海外だからかと思っていたけど、もしかしたら身近な、ここ伊達でも起こっていたんじゃないかと……。「=」で結ばれてしまってはいけないことが世界中どこにでもあると思い始めたら、予感が的中したというか。室蘭にも遊郭はあったとか、なんとなく聞いていたことが具体的に調べると的中していって。そこで史実を堅苦しく言葉にするだけじゃなく、リサーチした時の自分の中のザワつきや感触を舞台にあげられるかが重要だなと。どの史実が核というより全体に受け取るものが大事だったんです。
故郷の取材は主観的になりませんでしたか。
結果それがいちばんやりたかったんじゃないかと思うんですよ。沖縄戦を調べる時はやっぱり客観性がある。何十年も住んだ経験があるわけではないし、もしかしたら何十年過ごしてもわからないことに触れているので、知った気にはなれません。だから距離がある。舞台は一つの距離をもった客観性や物事を冷静に観察する感覚みたいなものが成立してないとデザインできないんですよ。ただ、距離があっていいと言い続け、主観性や自分の本当の手触りで描かなくていいのかとも…。辛いことだけど自分の中を一回通して込み上げてくるもの、アーティストとしてじゃなく個人的な怒りみたいなものに触れてみるのも大切だと思い、「equal」でやってみたんです。どういう感情になるのか緊張もあったし、稽古は正直、嫌なものに触れている感覚でした。そこで描いているのは史実だけじゃないので…。コロナ禍で身近な人が自死したり、病気で亡くなったりしたんです。その感触も敢えて舞台にあげて、その人たちと僕が今どういう距離でいるのか、自分を削るような覚悟で描いたのが「equal」なんです。
友人の失踪を描いた2013年の作品「てんとてん」〈※1〉の設定を踏まえた「equal」は、より重層的なリフレインとも言えますね。
最近、本当の意味で話せていたのか、話せていたようで話せていなかったということに引っかかっていて。人とちゃんと話せたことって極論、無いような気がする。そして、ちゃんと話せたと思える人間だったら作家になっていないと思うんです。あるラッパーも言ってたけど、普段ちゃんと人と話せていないから言葉を精査したり推敲できる表現をやってるんじゃないかと。言葉に満足している人は台本や小説を書く行為をしないと思う。言葉を作品にしようとする人なんて少しおかしいに決まってるじゃないですか(苦笑)。言葉に対するコンプレックスにバグが起こっているんです。その構造をなんとかできないかと思ってリフレインを複雑化してきたけど、今はもっとシンプルにしたい。僕自身まだ受け止め切れてないんですよ、自死のことも喪失みたいなものも…。自分の中で全然整理できてなくて、自分のコンディションが鏡のように作品に出てしまう。先日また帰郷して違う観点もできたので、次の公演はもうちょっと自分に正直にいけるかもしれない。作品の印象は変わると思います。
〈※1.正式なタイトルは「てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。〉
「会いたい人は会えない人だ」というセリフもありましたが、死者は記憶の中で生き続けても、声を聞けない悲しさが残ることを「equal」で再認識させられました。
音のレベルで人と向き合えているかはハラスメントの問題なども同じですよね。本当にその人の言葉、声を聞いていたのか。コロナ禍でいろんな距離が生まれたじゃないですか。声を聞くって人間関係の原点みたいなところがありますよね。劇場の方とも話していたんだけど、なんでライブに行くかというと、人の声を聞きたいからだと。僕たちは会わなくていいと思わないから演劇をやっていて、そこに賭けている。会わなくていい、電話、LINEで済ませればいいってことがどんどん増えている中、会わなきゃわからないことを信じているから演劇をやっているんです。演劇も映像化が進んでいるけど、劇場に来てもらう未来を想定していないのであれば演劇にとってマイナスでしかないと思います。その中の声は過去の声でしかないから。演劇は今その瞬間その人が発したことを聞くもの。映画には、例えば笠智衆の声が聞ける良さはあります。故人の笠智衆さんは演劇にはもう出られません。半面、映画というのは、例えば昨日の都知事選〈※2〉のことを知らないんですよね。映画の中の人は知らない。でも演劇の登場人物は知っています。演劇は重い芸術のようで最速のメディア。台本を変更しなくても「今朝また熊が出たらしいね」って役者と話すだけで、声や声色、セリフの言い方が変わる。それを感じるには演劇をライブで観るしか無理なんです。
〈※2.取材日は2024年7月8日〉
戦争を描き続けるのはなぜですか。
「cocoon」で大切にしていた言葉に「過去にとっての未来は今」があります。過去の人たちが思い描いた未来は今だとして、そんな言葉が浮かんだんです。沖縄戦で亡くなった人たちは、こんなことはもう起こらない、友だちが目の前で死ぬようなことが起きてはいけないと思ったはず。でも連日、パレスチナで子どもたちが亡くなる映像がSNSで流れる。例えばひめゆり学徒隊のみなさんはこんな未来を望むはずはないのに、なんで過去から見た未来と今は矛盾するのか。矛盾するのが不思議だから、未来に対する手紙として戯曲を書いているんです。「cocoon」や「equal」は平和だったら生まれない。こんな作品、本当は無いほうがいいんです。本当に平和だったら表現も愉快なものだらけかもしれない。でも、そうじゃない世界だから、映画も演劇もずっとあるんだと思います。こう語る時、未来に対してどういう態度をとるのか試されている気がするんですよ。僕だけじゃなく、大人みんなが試されている。何かを誰かに見せることは、相手が「今日見ていた風景とちょっと違う風景を見るかもしれない」という可能性を秘めた客商売。結局は未来に対してやっているんですよね。
◎Interview&Text/小島祐未子
◎Photo/安田慎一
マームとジプシー「equal」
〈三重公演〉10/26 SATURDAY・27 SUNDAY
■会場/三重県文化会館小ホール
■開演/10月26日(土)18:00 10月27日(日)14:00
■料金(税込)/整理番号付き自由席
一般¥4,000 25歳以下¥2,000 18歳以下¥1,000
■お問合せ/三重県文化会館チケットカウンター TEL.059-233-1122
〈豊橋公演〉12/7 SATURDAY・8 SUNDAY
■会場/穂の国とよはし芸術劇場PLAT アートスペース
■開演/各日14:30
■料金(税込)/全席指定
一般¥4,000 25歳以下¥2,000 18歳以下¥1,000
■お問合せ/プラットチケットセンター TEL.0532-39-3090