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「市川海老蔵」スペシャルインタビュー取材日:2012.04.11
歌舞伎の名門市川宗家の後継者として、また若手花形の筆頭として
その存在感をますます発揮し続けている市川海老蔵。
この夏、自らの発案による新作歌舞伎『石川五右衛門』を名古屋で披露します。
役柄について、歌舞伎について、今、海老蔵が思うこととは…。
海老蔵が迫る“五右衛門”の本質。
新作歌舞伎『石川五右衛門』が3年振りに上演されます。名古屋では初披露となりますが、その見どころについて教えてください。
石川五右衛門という人物にはいろいろなイメージがあると思いますが、実は日本に正確な記録は残っていないんです。「釜茹でになった」というエピソードを外国の宣教師さんが残しているだけで。今度、上演する『石川五右衛門』は、秀吉と五右衛門が親子であるというのが一番の目玉でね。作者の樹林伸さんが考えられたんですが。秀吉は、台本上では悪人になっています。町人たちから評判が悪かったんですね。そこで、自分が秀吉の息子であることを知った五右衛門が、秀吉の大切にしているものを盗み「自分が悪者になって秀吉に捕らえられることで、父が“正義”になるのではないか」と考えるわけです。そこからさらに成長を遂げて、父のために死を覚悟するひとりの男のドラマ。ヒューマニティを大きな筋としながら、エンターテイメント性が強い歌舞伎に仕上げています。
海老蔵さんご自身の発案で生まれた作品ですが、
「自分で作る」ことの面白さをどのように感じていらっしゃいますか?
自分で作っているという自負はないんですよ。藤間勘十郎さんが演出、書くのは樹林さん。で、みんなが作っていく。僕も作ってます。でも「自分が、自分が」とは思わないようにしてる。そこを坂東玉三郎が言うんですよね。「自分が演出して自分が演じるときの難しさというのがある」って。自分が演出で自分が主演するという怖さ、自己満足で終わってしまうような…。それが臭うような舞台が一番怖いということを、お兄さんは指摘しているんだと僕は感じているんです。だから自分の案は出したとしても、やっぱり演出家というのはきちんといた方がいいし、現時点の僕としては賢明な判断だと考えています。
『楼門五三桐』などの古典歌舞伎で描かれている五右衛門像と、今回の五右衛門像。その違いや五右衛門という人物の本質を、海老蔵さんはどのように捉えていらっしゃるのでしょうか?
決まりがない、というところが本質だと思うんです。『楼門五三桐』の五右衛門も、歌舞伎が作り上げた想像上のことですし。例えば金を撒くのも、五右衛門がやったかやってないかは定かではない。夢の中でどこまでもお話を広げられる人物である、というところが一番の魅力なんじゃないでしょうか。今回の五右衛門は、天下を統一した秀吉に対して挑む姿勢を貫く中で、どうにかしてひと泡吹かせてやろうというのが性根にあるんですね。大筋は先程お話した通りですが、そこまでのサクセスストーリーですとか、ちょっと書き換えようと思っている秀吉とお茶々の関係ですとか…それから、五右衛門と秀吉が対峙したときには古典の所作で重みを出し、そして山門…そもそも山門の場面で「絶景かな、絶景かな」ってよく見るけれども、果たして何が絶景なのか我々にはわからない。視覚的要素では絶景なんだろうけれども、あくまでも自己満足の中での「絶景」だったら、はっきり言って僕は面白くないな、というのが「楼門五三桐」に対する唯一の疑問点だったんですよ。だから、そこに対する伏線が欲しい、説明が欲しい、と。秀吉を覆そうと思ったら、父だった。それを「よーし、わかった。俺の生きる道は…」バーン(足を鳴らして)と見たら、桜吹雪の中で山門の上だ。「絶景だなぁ〜」これで腑に落ちる…としたところが、この作品で僕が好きなところですね。
古典の深みに行き着くために。
エンターテインメント性の高い作品に仕上がっているということですが。
歌舞伎というのは、基本的に「一に古典」だと思っています。ただ、古典を理解していただくためには、噛み砕いたものが必要になってくる。例えばこの「石川五右衛門」のように、歌舞伎という演出法の中で歌舞伎役者が勤める石川五右衛門をわかりやすく描くことによって、「あ、意外とわかりやすいんだ」と思っていただく。そういう方がいらっしゃったら、また別のものを観てみようと思うかもしれない。そのときに「今回はちょっと難しかったな。でも、もう1回観たいから勉強してみよう」と思っていただくことが、僕の中で大きな仕事なんです。ですから、別にエンターテインメントに偏るということではありません。やはり古典が第一なので、それを楽しんでいただくために、入門編のようなものが必要だと。我々若手も危機感を持って、そういったものに取り組んでいるわけです。
古典の魅力はどのように感じていらっしゃいますか?
古典はやっぱり素晴らしい。深いですよ。ただ、その深さというのが、なかなかわからない世の中になってきたと思います。親と子、夫と妻、家族…そういったものの深みや日本らしさが希薄になりつつありますよね。でも歌舞伎の演目の中では、そういうものが随所にみられるんですね。例えば、五右衛門が秀吉から盗もうとしたとされる香炉を徳川美術館で見せていただきましたが、元はただの土じゃないですか。でも、歴史の重みや人々が触れていたときの環境、空気を持っていますよね。それを僕たちは香炉を通して体感できる。そういうものに美しさを感じるように、演劇という文化が残ってきた。そういう意味でも、古典の深みの味わいはやっぱりたまらないものがあると思います。ですから、そういうところに僕も行き着きたいし、お客様にそれを味わってもらうためにも、やっぱり新しいものも必要なのではないかと。僕は、歌舞伎の世界ではまだ若いんですよ。だから、若いお客様、初めてご覧になる方をなるべく増やすという責務がある。そういう中で、ゆくゆくは古典で深い味わいが出せるようになることが最終的な目標です。自分がそうなるだけじゃなく、多くのお客様方がそういうものを理解できるような状況にできたら、この上ないことですよね。
昨年、お子様がお生まれになって、古典の深みやそこで描かれる親子関係などに対しての思いに変化はありましたか?
例えば『寺子屋』(『菅原伝授手習鑑』寺子屋の場)で、松王丸が主君への忠義のために我が子の首を差し出しますよね。先輩たちは「やっぱり子どもがいなかったら松王丸の心境はわかんねぇだろ」っておっしゃるんですよ。でもね、子どもがいてその心境がわかるということは写実にはなるけれども、その役に閉じこもるわけですよね、ある意味。でも子どもがいなければ、どういう心境なのか模索するという作業が広がるわけですよ。だから『寺子屋』で松王丸をやる場合、実際に子を持ったときの心境と、子を持たずに模索している心境、どちらがアーティストかと言ったら、僕は後者と考えます。でも観ているお客様に対する説得力でいえば、やっぱり前者になってくるでしょうね。
昼の部『夏祭浪花鑑』では、二役勤められますね。
団七九郎兵衛は、数年前、当代の中村勘三郎に教わりました。「教えてやるからアリゾナに来い」と言われて、そこまで行って覚えたという(笑)、僕の中でも思い出深い作品です。このお話は「男気」と「女性の粋」。これに尽きると思います。今回は、女方もさせていただきます。お辰という、団七九郎兵衛の親友になる男の妻です。この女の意地というのもこの演目のひとつの題材ですから、もう一度勉強し直して勤めたいと思っています。歌舞伎ならではの面白さがある狂言ですし、夏を意識した季節感のある演目ですから、お楽しみいただきたいですね。
最後にプライベートなお話を少し。今、夢中になっていることはありますか?
時間はないんですけど、趣味は多いんですよ。今、夢中になっていること…ふたつあるんだけど、言えないなぁ(笑)。