HOME > 世渡り歌舞伎講座 > 第三十九回「人間関係は、恩の応酬?」

世渡り歌舞伎講座


文・イラスト/辻和子

人間関係は、恩の応酬?

「人にしてあげたことは忘れても、してもらったことは忘れるな」と言われます。ずっと意識し続けるのも難しいですが、なかには「してあげたこと」をずっと憶えていて、ことあるごとに持ち出す人もいるでしょう。もしそんな人物が上司だったら…。
運悪くそんな上司を持ったのが「馬盥の光秀」の武智光秀。本能寺の変で、主君の織田信長(本作では小田春永)に反逆した明智光秀がモデルです。有能な教養人である光秀は、最初はとても謀反をおこすような人物には見えません。対する春永は、サディスティックで激昂しやすい、典型的な「クラッシャー上司」。春永は光秀を、朝廷からの使者のもてなし役に任命しますが、やることなすことに因縁をつけます。冷静沈着な光秀は、おだやかに春永の間違いを理論整然と指摘。その態度がますます春永の癇にさわるという悪循環のループに陥り、家来に光秀の眉間を鉄扇で打たせるという暴挙に出ます。それでも光秀は耐えています。
また人間関係というものは一対一のみならず、周囲のバランスでも変わるもの。劇中には登場しませんが、同じく春永の家臣である真柴久吉(史実の羽柴秀吉)の影響も大です。久吉からの贈り物で、馬盥(馬用の盥)に生けられた錦木を見た春永は「馬の世話係から取り立ててやった恩を忘れない感心な奴」と受け取ります。
春永にとっては常に冷静で内心がわかりにくい光秀よりも、久吉のほうが目をかけやすく、引き較べては光秀をいびり、あげくには大勢の前で馬盥で酒を飲ませます。追い打ちをかけるように、昔貧しかった光秀が、過去に来客をもてなすために売った妻の切り髪を与えます。実はその髪を買ったのは春永の家来で、光秀の境遇をあわれんだ当時の春永が、光秀を家臣に抜擢したという経緯があります。春永にしてみれば「昔の恩を忘れるな」と言いたかったわけですが、光秀とて別に忘れていたわけではなく、真面目に与えられた仕事をこなしていただけ。しかしつらい過去をさらされた結果、ついに堪忍袋の緒を切り、密かに反逆を決意します。「恩の応酬」とは、まことに難儀なものです。